「非業の最期」という言葉が余りにピッタリと来すぎる 昭和後期の"傑物" 村田兆治投手の訃報。
余りにショックで、信じられぬ想いに、この不幸について何か書こうと言う気が暫くまるで起きなかった。。。
(千葉ロッテマリーンズ公式)
然し、本当にドン底の不人気に喘いでいた当時のパ・リーグを「実力のパ」というプライドと共に牽引していた、客を呼べる、当にパリーグの顔の一人だった。
贔屓チームの枠を超えて、"心の底からのリスペクト" を感じていた投手であり、理不尽な不遇の境遇にあったパ・リーグのファンとしては、ライバルチームの選手とは言え、門田博光、山田久志、落合博満らと共に「同朋」の様に思える存在でもありました。
まずもって、衷心より、ご冥福をお祈り致します。
そして、日本プロ野球史に遺した、その偉業を讃えたい👏👏👏
サプライズ
時はライオンズ黄金期初期。ロッテに伝説の剛腕投手がいたという「名前」は知っていたものの、
丁度ライオンズの野球を頻繁に見出した頃にTJ手術で姿を消していた為、その勇姿は見たことが無かったのが正直な所だった。
https://www.news-postseven.com/archives/20140319_246321.html/2
復帰後の村田兆治を見た時の驚きは、野茂英雄を初めて見た時の衝撃に勝るとも劣らないモノだった。
まず、あのフォークボールのエグさ。
お化けフォークって、村田兆治に差し上げるべき称号でしたね。
そして肘にメスを入れたロートル投手とは思えない「剛球」
当時のガンで150km/h 出ていて、度肝を抜かれた。
あの当時、郭泰源というバケモノは傍において、津田とか小松とかがイニング限定で漸く150km/h出て「すげ〜」と言われてた時代。(あっ、槙原も154km/hとか投げてましたね。でもあの頃はノーコンだったし、凄みを感じなかった…)
当にあの時代の"ダルビッシュ" であり、"大谷" であった事がこの成績(トラックレコード)から伺い知れる。
一にも二にも、弱小球団・ロッテオリオンズで、215勝(TJ手術で2シーズン棒に振っても)を挙げる凄まじさが分かる。
最晩年で最盛期は勿論、過ぎてましたが、ライオンズの誇るAKD砲が手玉に取られる姿には、敵ながら「天晴れ❗️」と拍手👏を送れる偉大な投手でした。
https://dot.asahi.com/wa/2016021000098.html?page=1
現役時代、私は清原との対戦が楽しみだった。1990年10月13日、旧川崎球場で行われたロッテ対西武の四回。清原との最後の対戦は、清原がピッチャーゴロに終わり、私は打たれなかった。彼もフルスイングできたけどね。まっすぐばっかりでよく勝負したよ。打たれてもそれが勝負だから。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/07/15/kiji/20200715s00041000187000c.html
「パ・リーグだと、自分が入った時の村田兆治さんであったりとか、山田久志さん。もう本当に死球当てられて“よけんか”って怒られたのがこの2人ですね」と回想。「それでマウンドから降りて来て、“しっかりよけんか”って怒られた」と振り返った。
懐かしい。
時代は「バブル真っ盛り」でしたね。。。
黄金期・ライオンズが村田を倒したシーンも。。。↓
鈴木哲先輩の初勝利、相手は兆治さんだったんですね❗️
マサカリ投球バカ一代
負けず嫌いで努力を惜しまない頑固一徹の男。
然し、高みに登る為なら「奇怪」と思えるフォームも試して己のモノとする。
「松坂がどれだけ見えない努力をしてきたか、私にはよくわかります。術後はスポンジを握るだけでも指がむくんだ。投げられないときはいつも山道を40キロ走った。また先発完投して勝てるようにならなければと必死だった」
https://www.news-postseven.com/archives/20180620_700513.html?DETAIL
(出所: ポストセブン)
魔球・フォークの体得も、ただ小山さんに習うだけでなく「教えられたものを更に昇華させる」能力。(小山さんのフォークってリアルに見た事ないから分かりませんけど…。)
当時、日本では海のものとも山のものとも分からないTJ手術に「挑戦」する度胸とパイオニア精神。
当にプロ野球界の「巨星」でしたね。
(中日を破っての"日本一" の快挙においても、若きエースは大車輪の活躍)
一方で、心優しい面もあり、引退されてからは野球少年達への指導に「使命感」を持ち、殊の外、熱心だったんですね。
家庭のご事情は分かりませんが、一人暮らしでの中での非業の最期。
天がこの人に与えた運命と試練は、余りにも過酷で理不尽の様に、側で見る凡人には思えて仕方ない。