ありがとう平成の怪物(前編)
巨星墜つ
遂にというか、とうとうと言うか、やっぱりというか、
平成の怪物 栄光のライオンズの歴史の中でも、エースと言えばこの男、という指折りの存在あった男がユニフォームを脱ぐ事になりました。
世間でも一世を風靡した大物の引退報道に騒がしく 、既にToo much感があり、気が引けますが、やはり私的に「この区切りはつけて置きたい」と。
不調のチーム事情で気持ちは沈みがちですが、独り言を書き連ねておきます。
屈指の甲子園スター
名門・横浜高校で築かれた不朽の金字塔。
彼の後に既に勝るとも劣らない素材は排出され続けてますが、優勝投手として、実力を伴いつつ、こんな漫画以上のドラマを生み出す投手はもう、中々、出現しないでしょうね。
(こんなに投げさせられる事は無いので😓)
1998年の第70回選抜高等学校野球大会では完成度の高い投球と小山、後藤武敏、小池正晃らチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。最後の夏となった第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡(後に日本テレビアナウンサー)や大西宏明や平石洋介や2年生田中一徳を擁する(春の準決勝で破った)PL学園高校に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日の準決勝、寺本四郎擁する明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。
決勝の京都成章戦では嶋清一以来59年ぶり史上2人目となる決勝戦でのノーヒットノーランを達成(この大会では杉内俊哉もノーヒットノーランを達成しており、1大会で複数のノーヒットノーラン投手を輩出した史上稀に見る事例であった)。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。この決勝戦は後に所属するボストン・レッドソックスのスカウトが観戦していた
(出所: Wikipedia)
海外勤務で新聞やNHKでしか知るしかありませんでしたが「ど偉いスター投手が出たモンだ」と。
晴れのライオンズ入り
(出所: 日刊スポーツ)
そして秋のドラフトで何と我らがライオンズ、東尾修が引き当てた時には、少し野球に冷めてた時期でもあったが、飛び上がる位嬉しかった♬
東尾修さん、松坂の200勝記念球もらえず「残念だが、よくやった」 | 毎日新聞
恩師の一人、東尾修からもメッセージ
日本へ帰った時は、真っ先にその勇姿を所沢に拝みに行こうと思いましたよ…。
Meet With Daisuke Matsuzaka
そして一時帰国時、夢が叶いました〜。
ドームになった西武球場初体験と共に。
ゲームの内容はすっかり忘れてしまいましたが、
何処かで書いた様に、
同じ148km/hの松坂が投げる球と、その後投げた西崎の148km/hの体感速度が、スタンドから観てても、一目瞭然に違う。
「あぁ、コレなんだなぁ」と妙に納得して帰った記憶は鮮明です。
俺は怪物をこの目で見届けた❗️という満足感で日本を、また去りました…😆
いい想い出です。
怪物と名のつく者の終わり方が、江川然り、松坂しかり、何とも「他律的」な幕引きになっているのが悲しいですね。
悪意はないんでしょうけど、
江川卓の「禁断の鍼」
松坂大輔の「ファンに右手を引っ張られて…」
少なくとも、カッコいいものではありませんね😢
ダイスケの場合も、本人の苦労・苦悩は周りの方が既に論陣張って守られてますけど。
最後、公式戦の引退試合で投げて
「我が野球⚾️人生に一点の悔いなし❗️」みたいな、終わり方を観たかった気もする。
それを考えると、村田兆治って、凄かったな。
あの時代に TJする覚悟と、その後の復活の見事さ。余力を残した去り際の潔さ。
松坂大輔、太く短くの投手人生でしたね。
いや、太く中くらいの長さ(ユニフォームを着ていた時間は十分長かったですが)のですか。。。
高校時代の「投げ過ぎ」弊害のサンプルとしても、体を張って後進に貢献したと思います。
恩師の東尾修に、自身の200勝記念ボールの返礼は出来なかったけど、松坂には東尾にはない国際試合における栄光の勝利の数々がある。(東尾の時代には、そんな機会はなかったですが)
200勝(日米通算)には届かなかったが、オリンピックやWBCの1勝は10勝分ぐらいの価値を見出せるという考え方もあると思います。
「名球会」に入れなかった名選手をフォローする言葉として、記録でなく記憶に残る選手の様な褒め言葉がありますが、Daisuke Matsuzakaは、見事に記録にも記憶にも残った、稀有で唯一無二の平成の怪物であったと思いますよね。
名球会を超えた名投手。